一湾生の備忘録 懐かしき台湾

台湾での生活の記録です。

一湾生の備忘録 その2 造橋の自宅付近の様子 令和5年10月15日の日記

一湾生の備忘録 その2 造橋の自宅付近の様子


造橋駅は、鉄道の縦貫線が台中線に分岐する
竹南駅の次の駅だ。


造橋は人口は定かではないが、
小学校も無い人口の少ないとところだった。
住んでいるたいる台湾人は、広東語を使っていた。



当時の初等教育制度は、
台湾人の子どもは、公学校で、
内地人の子どもは、小学校で教育を受けるようになっていた。


後に、小学校は第一国民学校に、
公学校は第ニ国民学校に改称された。




原住民の児童は”蕃童教育所”で行い、
教師は、駐在所の巡査だった。


”♫サヨンの鐘”はこれに基づいている。


公学校の授業は日本語で行い、教師は内地人だ。
授業受けていた児童は苦しかっただろう。


でも、当時の教育を受けた台湾人は、日本語は上手だ。

「勝っちゃんのお父さんは、陸軍一等兵だったね」とは、
近所の人台湾人のおばさんの言葉だ。


公共のた建物は、庄役場、警察官駐在署 公会堂 公学校の校舎の程度だった。


警察官駐在署の建物は、正面玄関から見て、
中央が事務所 左側が内地人の右側が台湾人の宿舎になっていた。  
巡査はそれぞれ三八式歩兵銃を所持していた。


私が住んでいた間は事件もなく、近所の屠殺場で処理された」
台湾人二人が棒で担いできた豚に、青い検印を、
ペタペタと押すのが仕事のように思えた。


内地人の私の年頃の男の子は居なかった。
公学校の校長の娘さんは居たが、
「男女七歳にて席を同じゆせず。」の時代だ。



友達は、必然的に台湾人の男の子だ。
いろいろと教えて貰った。
「長幼序あり」のようなことも言っていた。



私の家には、銃が3丁あった。
村田銃、外国製の中折れ式の銃 いずれも散弾銃の猟銃。
ドイツ製の空気銃。





父親の仕事は「台湾電力 造橋散宿所」
特別高圧電線路巡視が主な仕事。


巡視の時は猟銃を持って行った。
獲物は、山鳩 ペタコ(白頭)雀。


ぶつぶつ言いながら、母親は鳥の毛をむしった。
調理は父親がした。

「これらは、台北だは値段は高いんだよ」とも言っていた。
私は雀の頭を美味しいと思ったり。