一湾生の備忘録 懐かしき台湾

台湾での生活の記録です。

一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その8 中学校の授業

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<title>一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その8 中学校の授業</title>


<span  style="font-size: 125%; color: rgb(255, 0, 0);"><b>一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その8 </b></span><span  style="font-size: 125%; color: rgb(255, 0, 0);"><b>中学校の授業</b></span><br /><br /><br /> <b>試験</b><br />1学期に、中間試験と本試験。<br />1学年で、40点以下の成績(赤下駄と)があれば落第。<br /><br /> 特に苦痛を感ずるのは無かったが、<br />問題が2問しか出ない西洋史は厭だった。<br /><br /> 「ローマ帝国について知る事を書け」<br />とか「○○○○の大移動とはどういう事か」<br />予想していなかった問題で、40以上を<br />稼ぐのに苦労した。<br /><br /><br /><br /> 落第すれば、今迄の同級生が上級生になり、<br />会えば先に敬礼をしなければならず、それは厭だった。<br /><br /><br /><br /> <span  style="font-size: 125%;">授業</span><br /><br /> 剣道<br />服装は剣道着ではなく、ゲートルを外した学生服姿だった。<br />防具は先輩の物をを使用した。<br /><br /><br />竹刀は、学校で纏めて購入した束が、ステップルファイバーではなく、<br />父親が買ってくれた皮製のものだった。<br /><br />竹は身が厚く、学校で纏めて購入した物より<br />少し短かったが、気に入っていた。<br /><br /><br />素振り百回は、辛かった。少しでも手のあげ方が低いと、<br />後ろから頭を竹刀で叩かれた。<br /><br /><br />試合の時に防具から外れたところを叩かれて、痛かった。<br />教師は、永田五段。<br /><br /><br /> 教師の講評のあとは、教練。<br />10分間でゲートルを巻終えて、校庭に並び教官を待った。<br /><br /> 教官は、陸軍少尉 桃原喜光 沖縄師範学校卒業。<br />私の在学中に中尉になった。<br /><br /><br /> 「大きくなった時の希望は何か 」と聞かれたので、<br />「兵隊になります。」と答えたので、「兵隊ではなくて、将校になると言え」と<br />教えられた。<br /><br /><br /><br /> 教練は厳しく、生徒の態度が気に入らないと、<br />「あの木に向かって早がけ!」と号令をして、<br /><br /><br /> 戻ってくるのが、約半数のところで両手を広げて、<br />「もう1回」と言った。私は、いつも「もう1回」の組だった。<br /><br /><br /> 終戦後どこだったか記憶にないが「教官 どうしますか」と尋ねると、<br />「どうしようかなぁ 沖縄は玉砕したと聞いているので」と答えられた。<br /><br /><br /> 私は、戦後 沖縄本島で配電会社に就職した。<br />その時に同僚にそのことを話すと、「住所はわかるよ」と言われ、<br />与那原町のお宅を尋ねた。<br /><br /><br /> 奥さんが出てきたが「会わない方が良い」と言われたので、<br />そのまま引き下がった。<br /><br /> <br /> <span  style="color: rgb(255, 0, 0);"><b>桃原喜光氏</b></span>は、中学校の教頭で退職したとのことだった。<br />