一湾生の備忘録 懐かしき台湾

台湾での生活の記録です。

一湾生の備忘録 電験二種合格 配電会社から電力会社支店へ  

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<title>一湾生の備忘録 電験二種合格 配電会社から電力会社支店へ    </title>

 

 


<span  style="font-size: 150%;"><br /><br /><br />一湾生の備忘録 電験二種合格 配電会社から電力会社名護支店へ<br /></span><br /> 電験受験が沖縄でもできるようになり、<br />私は受験して合格した。<br /><br /><br /> 部下が、1種を受験し合格したが、<br />暫くして白血病で亡くなった。<br /><br /><br />  <b>あってはならない感電死亡事故</b><br /><br /> 少年が、民家の屋上を通過してる配電線に止まっている鳩を<br />捕ろうとして感電死亡する痛ましい事故があった。<br /><br /><br /> 昭和51年5月15日 沖縄電力株式会社が誕生した。<br />その時私は、中央配電技術部長だった。<br /><br /><br /> 授業員が感電死亡した。<br />柱上変圧器の1次側リード線(6600ボルト)にペンチを、<br />素手で当て感電死亡した事故だ。<br /><br /><br /> 労働基準監督署から私が調べられ、罰金10万円が課せられた。<br />不満だったが、10万円をはえあった。<br /><br /><br /> 死亡した従業員の奥さんは、半身不随で歩けなかった。<br />鍼(はり)の失敗と聴いた。<br /><br /><br /> <b>沖縄電力になって私は、名護支店に工務部長として勤務した。</b>。<br /><br /><br />